映画『KNOCKIN' ON HEAVEN'S DOOR』を見て♪


映画『KNOCKIN' ON HEAVEN'S DOOR』
 
これは、1997年公開のドイツ映画である。
c0137122_15013122.jpg
ボブ・ディランの同名タイトル曲「
Knockin' on heaven's door」=ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドアがあったよね。

じつは、あの名曲から着想を得たと言うか、オマージュにしたというような主旨のことを、監督自身が公言している。
 
さらに言うなら、ボブ・ディランの曲のことは私も知ってはいるが、このドイツ映画のことを、私は、つい先日まで知らなかった。
映画ファンなら知っているべき、見ておくべき「名作」なそうなのだが、知らなかったのよ。
 
とあるキッカケがあって、こちらの映画の存在を知り、見たくなってDVDを買って見た。
(どうやら、知る人ぞ知る名作なのに、日本国内においては旧版のDVDは絶版になり、吹き替えなし版でようやく復活したもののBD版が存在しない程度の、セールス的には不遇な扱いだったようだ。)
本国ドイツや海外ではカルト的な人気がある作品らしい。
 
もちろん日本でも、知ってる人は知っている名作であるから、なんか日本で2009年にリメイク・ムービーが作られたとか。
主役の男性ふたりを、男女にキャストを変えて作っちゃったとか。
そっちは私は見ていないので、コメントは差し控えます。
 
とにかく、原作の
映画『KNOCKIN' ON HEAVEN'S DOOR』は名作だった。
※映画用のオリジナル脚本だ。
 
ストーリーは、とある日の病気の検査で「末期癌」を告知された二人の男性が、たまたま病棟の同室になって知り合うというもの。
(赤の他人で、同じ日に同じ病院で検査、それぞれの担当医から告知を受けていた。)
 
唐突な間近な死の予告である。
 
日頃、健康に問題なく暮らしているつもりの人にでも、まぁ、誰にでも起こりうることだ。
 
劇中の彼らもまさしくそうだった。
 
ふたりの男性のキャラクターは正反対。
ステレオタイプ的な言い方をすれば、常識人の真面目人間「ルディ」と、
c0137122_15021596.jpg
「マーチン」は、ちょい悪(わる)風なキャラ。まぁ、ふたりとも死ぬには早すぎる若さ。
c0137122_15022390.jpg
そして、ドイツ映画という舞台が、「らしいシチュエーションのふたりにとっての最後の希望、目的」を設定する。
「一度、海が見たい。」という。
内陸にあるドイツには海が無いから、同様に内陸部に住む人って、彼らに限らず"海に縁の無いまま人生を過ごす"人は多いかもしれない。
 
何かの伝承や逸話が原典にあるエピソードなのかどうかは知らないが、ここで「死を間近に突きつけられた彼らが話題にした話」が「天国」のこと。
 
その「天国」では今、なにが流行っているか知っているか?、という奇妙な寓話。
 
「天国では、海の話をするんだ。」
 
でも、人生でこれまで一度も"海を見たことがない"と言うルディに対して、「まさか、冗談だろ?」と応じるマーチン。
シチュエーションの成り行きで、こんなことを「病棟内のキッチンでテキーラを飲みながら酔っ払って、語り合っていた二人」は、そのまま駐車場の他人の自動車(ベンツ)を盗んで、酔っ払った勢いのまま、病院を脱出してしまう。
 
この盗んだベンツが、マフィアのものだった。
 
ここからは、いわゆるロードムービーになる。
 
「海を見に行こう」という目的のためだけに、成り行きの旅をする二人は、マフィアの車をそうとは知らずに盗んでしまった経緯から、同車内で拳銃と100万ドイツ・マルク(ユーロに変わる前だったから)を見つける。
 
これをまもなく死ぬ身の怖いもの知らずと、儚いなりの死の前に「やっておきたいこと」をやっちゃおうとする妙なバイタリティが凄い。
根底はシリアスなのだが、映画の流れはアクション・コメディになっているからだ。
100万マルクの件も、拳銃の件も「ラッキーな車を手に入れた」という認識だけで、使いたいように利用してしまうのである。(ルディの方には当初、逡巡があったが、無鉄砲なマーチンのキャラに流されてしまう。)
 
とても軽快に洒脱に、笑いながら90分ほどで見られる映画だが、笑いながら「泣いてしまう」のだ。
 
いくつかの映画のシーンを下にキャプチャーしておいたが、思い返すと、そういう無節操さの「笑い」と、まさしく刹那的な「せつなさ」がよみがえる名シーンばかりだ。
 
超高級なホテルのVIPルームに泊まって、死ぬ前にやりたいことを語り合う。時間が無いので、お互いにまず「ひとつ」に的を絞る。
c0137122_15023072.jpg
ただ、最後の旅の共通の目的は「見たことのない海をみること」。
c0137122_15023807.jpg
これは移動中の街角で見つけた「海の写真パネル」。
c0137122_15024546.jpg
この「海を見たい」というキーワードは、映画を鑑賞する立場からの誰の胸の中にも、何かと「置き換えることが出来る」キーワードだ。
 
普通、人は「間近な死の宣告」などされたら、ショックで無気力になって"なにも手につかなくなって"、ただ、呆然と無為に、その残された時間さえ過ぎるままに過ごして終わってしまうケースが多いことだろう。
 
それでも、今しばらくでも、ほんの少しでも時間があるなら、叶うことなら許されるのなら、その体が動きさえすれば、やっておきたいことのひとつや、経験したいこと、見ておきたいもののひとつは誰にだってある。
 
やりたいことがいっぱいありすぎて選べなくても、煎じ詰めればおのずとそれは見えてくる。
 
この映画でさえ、死ぬときは「ひとり」で逝ってしまうことに変わりはない。
誰が傍にいてくれようとも、いなくても変わりはない。
でも、そこに至るまでに、かけがえのないパートナーと出会えたことや、その瞬間までに過ごしてきた時間こそが既に得たもの「海に溶け込む太陽の輝き」そのものだったと言えるのだ。
 
それは、少し妙な言い方になるが、「ちょっぴり羨望さえ感じてしまう」切なさだ。
 
死ぬことは、若すぎるとか十分に生きたとかは別にして、簡単に納得出来ることでも歓迎できるものでもないが、より良く死ぬことは、より良く生きたことだ。
そう願って、望むとおりの死に方なんてのは、そうそう誰にでも出来るものでもない。
 

冒険とは真反対の行き方に『鉄道員』(ぽっぽや)がある。
『鉄道員』(ぽっぽや)の佐藤乙松の人生の思い出や、職場での死に方は、あまりにも切ないが、美学があると感じてしまうのは、何も日本人的な感性だからというだけのものではないだろう。


しかし、だ。
 
映画『KNOCKIN' ON HEAVEN'S DOOR』の二人が、その人生に例え心残りや後悔があっても、現状の生活を肯定できれば"冒険"はなかった。

黒澤明監督の『生きる』も、「じつは生きていたとは言えない」職場と生活の日常から、主人公がはじめて「前向きな生き方」を選んでこそ、「生きた」ことになる。 

今までやっていなかったことをしようとするのも「アリ」だし、
今までやっていたことに誇りがあるからこそ、何も変えずに職場で戦死しようとするのも「アリ」だ。
 
自宅で過ごすことが日常なら、冒険なしで、自宅での日常を全うするのだって「アリ」なのだ。(「何も手に付かないから呆然と自宅で過ごす」、という意味ではなく、自宅の日常生活の流れにこそ「あたりまえの癒しがある」という意味において「アリ」だと思える。)
 
でも、一歩新たに行動できるのなら「命短し、恋せよ乙女」♪ ・・・なのである。
 
よく生きること、よく死ぬことは、国境や国籍を越えた人の共感があるように思える。
 
劇中のマーチンの発作のシーンはヤバイ。ルディよりも病状の進行が深刻だからだ。本作品で、よく俯瞰も真上から遠景に地上の様子を見下ろしたアングルが要所要所に出てくるが、これ、私には下界を俯瞰した「神様(天国)から視線」のようにも思えた。
c0137122_15025275.jpg
ルディの友を思う決意の、このシーンもヤバイ。
c0137122_15030067.jpg
「地上はいったい何をやっているんだか・・・」という一種ドタバタのアクションシーン。神様からの俯瞰の目線。ルディとマーチンたちと、マフィア、警官隊との三つ巴の追跡劇。銃弾戦。カーチェイス。
c0137122_15031319.jpg
そうして、カメオ出演的な、あの名優ルトガー・ハウアーの出演シーン。マフィアの大ボス。
c0137122_15032543.jpg
そのルトガー・ハウアーのセリフが、まんま「ブレードランナー」のレプリカント役「ロイ・バッティ」の最後のセリフ、あの詩的なほどに美しくて切ないセリフに酷似している。・・・これは、彼の出演を切望した監督の意図通りの(
ロイ・バッティのセリフを想起させる)ように思えてならない。
c0137122_15033498.jpg
ラストシーン直前。ルディとマーチンの眼前に「海」が見えてくる。
c0137122_15035709.jpg
その海の色は、空の色は、ぬけるような「青色と白」の描写ではなく、「夕間暮れの赤い色」でもなく、ひたすらに「灰色」なのだ。
 
この海の色、波の色の描写、空の描写は、私には少し意外だった。
青と白の目覚めるような色の描写なら、分かりやすいと言えば分かりやすいが、海は広く広く雄大で荘厳ではあったし、ふたりの目は釘付けになってはいたが、どこまでも灰色、ダークグレーの描写だった。
 
美しいだけの描写ではないことが、余韻を与える。
おそらく、彼らの心の中にこそ「鮮やかな青と白」の描写があるのだろう。
 
やがて静かにエンディング。
 
強く印象に残る、いい映画だった。
 
私が知らなさ過ぎただけで、このブログを読まれている方は「今頃お知りになりましたか」と思われてる人も多かろう。

でも、もし未見の方がいらしたら、ぜひ原典ドイツ版の
映画『KNOCKIN' ON HEAVEN'S DOOR』をご覧になっていただきたい。
 
さて、
 
最初の方に書いた、この映画を私が知る"とあるキッカケ"というのが、ニコニコ動画のMMDによる二次創作なのである。
タイトルを【東方MMD】 Knockin On Toho's Door 第6話 【映画オマージュ】と云う。
作者は、Curvemirrorman さん
 
【ニコニコ動画】【東方MMD】 Knockin On Toho's Door 第1話 【映画オマージュ】

MMDで、「東方Project」キャラなので、出てくるのはみんな女の子キャラに翻案されている。
女子化が、安直な萌え迎合や、拙アレンジと見るのは時と場合による。
これが、ひと目でそのストーリー性にこそ惹きこまれたのだ。(原典が素晴らしいのだから当然かもしれないが。)
 
だけど、二次創作者のMMDキャラの動かし方、演出、間合い、セリフの翻案やオリジナルシーン。
そうしたものが、真に巧い演出家、作者(アーチスト)がアレンジしないと、どんな名作もボロボロに成り得る。
 
ところが、この二次創作の動画作品によって、「あ、これはぜひ元の映画も見てみたい」と思わせるほどの(良作な)出来栄えだったのだ。
ある意味、それは「すごいこと」だ。

マーチン役を比那名居天子(ひなないてんし)。
c0137122_15041214.jpg
ルディ役を魂魄妖夢(こんぱくようむ)。
c0137122_15042153.jpg
『Knockin on Toho's door』
c0137122_15042962.jpg
テキーラを酌み交わす病院のキッチンシーンの再現が「静」の表現で見事だった。
c0137122_15043634.jpg
女性の言葉に置き換えられた名シーンのセリフが、印象的だった。
c0137122_15044382.jpg
  
妖夢「でも私、海を見たことないんだ」
 
この、妖夢
(
ルディ役)のセリフに対しての、天子(マーチン役)のセリフ回しが、映画の日本語訳の字幕より気の利いた言い回しになっていて良かったくらい・・・。
映画同様、このシーンに流れるメインテーマのBGM(サントラ)がいい。
 
天子「・・・冗談でしょ?」
「今までずっと生きてきて」
「それも もうすぐ終わるっていうのに、一度も海を見たことがないの?」
 
「天国では何が流行っているか知ってる?」
「天国では海の話をするのよ」
「夕暮れ時」
「太陽が真っ赤に染まりながら 海に溶けていくの」
「鮮やかな光が じんわり広がっていって」
「深い海の色と ゆっくり混ざり合いながら・・・」
 
「でも

「貴方はその話に混ざれない」
「かわいそうに」
「海を見たことがないんだから」
「天国ではきっと仲間はずれにされるんでしょうね」
 
天子のこの例え話に、妖夢はしばらく考えて訊ねる。
 
「どうにかならないかな?」
 
そして、病院を脱け出しての"ロードムービー"につながっていく。

とある街角での描写。二人はとある広告看板(かポスター)の前で立ち止まる。
c0137122_15045090.jpg
映画にもあったシーンの再現。二人が見たのは「大きな海の写真」。「やっぱり、(本物の)海がみたい。」
c0137122_15050309.jpg
神様の目から俯瞰しているようなシーンも再現。
c0137122_15050929.jpg
MMDドラマで秀逸だったのが「ピンクキャデラック」の描写。マーチンの願い、"プリスリー・ファンのママのために、エルビスが実生活で母親にしたようにピンクキャデラックをプレゼントしようとする"シーン。(実話では
1955年製のピンクキャデラックだったが)MMDでは、「キャデラック・エルドラド 1959年式」だった。
c0137122_15051856.jpg
この
エルドラド・モデルが素晴らしい。キャラクターが搭乗している様子も、「MMDって、ここまで出来るの?」と感心した。
c0137122_15052541.jpg
映画にもあったシーンが、背景、自動車、ライトの明滅、雨降りの描写まで含めて再現されていた。「MMDすげぇ~。この作者の構成力、動画編集すげぇ~。」と驚嘆した。
c0137122_15055369.jpg
映画の重要なシーンを12~13分ずつの動画に分割して、シリーズで6話まで、これまで作られていて、次回、7話が最終回らしい。

MMDerの動画は、まだ完結前なのだが、期待して楽しみに待っているところだ。
この「MMDer動画」のおかげで原典映画を知ることになったので、良い二次創作は立派にアートなのである。
 
こちらの「MMDer動画」のBGMの使い方も、今年の流行語大賞に因(ちな)めば、映画とは違う独自のアプローチがあって「神ってる」演出だった。
 
そうしたBGMとは関連が無いが、「生きる」ことや「人生」の描写的に、この「動画」や「映画」を見ていて、私が奇しくも想起したのは、
日本のミュージシャン"野狐禅(やこぜん)"の「カモメ」だった。
 
野狐禅 LIVE カモメ
 
人生って、何かしらしようとしても、何かをしていたつもりでも、ふと思い直してみると「違う場所に来ていた」ということは、ままある。 

それを戒めるのも慰めるのも、考え方ひとつのような気もします。 
開き直るのも、真摯な気持ちになるのも、どちらもあるがままを肯定するのは、ひとつの勇気や祈りなのではないでしょうか。
 
私はこれらの映画や動画や音楽を見て聴いていると、無性に泣けてくるのです。 

       

[PR]

インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン by PINKNUT_INC | 2016-12-03 03:52 | 映画 | Comments(0)

<< 過去記事の「動画」が全部&qu... パソコンの調整中♪ >>