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母が亡くなりました

8月30日「土曜日」の朝、母が永眠しました。

私は「お母様がご危篤です。」の緊急呼び出しを受けて病院に駆けつけていました。
(先々週くらいから、この呼び出しは何度となく繰り返され、その朝の前夜まで、毎日病院に来ていたのですが、低空飛行で容体は安定。いったん帰宅していました。ず~っと不眠症になっていたので、「少し寝よう」と誘眠剤を服用した直後に"容体急変"で呼び出されました。)
ほどなく後に、医師から「今、お亡くなりです。」と、"死亡確認の時間"をそこで告げられました。

病院の地階にある『安置室』に、"退院"のための身支度をされてから移され、寒いぐらいに冷房の効いている安置室の隣の「控え室」にて、葬儀社の迎えが来るのを待っていました。
今の葬儀社は基本24時間対応で連絡してから1時間ほどで来るそうですが、たまたま他件で霊柩車(寝台車)が出払っているとのことで3時間ほど待ちました。

そして、ようやく午前9時過ぎ、式場の方に移送、安置。

翌日が『友引』ということで、その日の夜と、もう一日、丸二日間を私は母の夜伽(よとぎ)番として式場の安置部屋にて一人で付き添うことになります。
前夜から一睡もしていなかったのですが、夜伽の1日目も2時間の仮眠で目が覚めてしまいました。

通夜には家族(私の姉や旦那様たち)、母の孫からひ孫一家まで、皆が次々と来てくれましたが、二日間とも泊まりは私ひとりだけだったのです。

葬儀会場で二日と半日~しかも母のお棺の「守」をしながら、その傍で~寝起きして過ごすというのは初体験でしたから・・・、~この時の話は、また機会があれば後日にでも、こちらのブログで・・・。

(大きなホールも2つある葬儀会館でしたが、他家の葬儀も「友引の日」には無く、3部屋ほどある他の控え室にも人はおらず、広い会館内、最初のひと晩目は、私一人の貸切状態みたいな夜を過ごしました。~階下に待機のスタッフや警備員は当然いたでしょうが、夜10時から、翌朝7時までは会館出入り口も施錠されるので、2階でひとり缶詰です。2階の広いロビーを会館公衆トイレまで、自由に歩き回れましたけど。洋式トイレでウォシュレット付きなのが清潔感もあり、深夜も煌々とロビーすべての証明は点いたまま。全く「暗さ」の無い葬儀会館でありました。もちろん厳粛な場所でしたが清涼飲料の自販機もありましたし。)

9月1日「月曜日」。
葬儀、そして斎場での火葬をもって、滞りなくセレモニーは終了しました。



「斎場」で荼毘にふされる母、遺族の私たちは火葬の完了まで1時間ほど別館にて待つことに。
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一緒に来ていてた母のひ孫の女の子が「あ、ひぃお婆ちゃんの煙・・・」と言ったので、見ると今まさに白く黒く入り混じった煙が、斎場の煙突から空に昇っておりました。
この日は、しとしと、傘を差さなくてもいい程度の雨が降っていて、まだ夏場の今頃としては、とても涼しかったです。


母は、今は私と一緒に自宅に帰ってきています。
白木の箱を化粧飾の白い布に包まれた小さな姿になって。

お母さん。
本当に長い間お疲れ様でした。
有難うございました。




インターネット広告の「トランスメディア」提供スキンアイコン by PINKNUT_INC | 2014-09-03 23:57 | ブログ

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